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●歴史・史跡・文化財の紹介 猿田彦神社 寛永2年(1625)に勧進された小社であるが、大津への近道として旅人の従来で賑わった矢橋道沿いの神社にふさわしく、道の神猿田彦を祭神とする。 鞭崎八幡宮 社名は建久元年(1190)上洛途上にあった源頼朝が馬上から鞭を持って神名を尋ねたことに由来する。重要文化財に指定される表門は旧膳所城の南大手門を移築したもので、江戸時代の重厚なつくりの門である。 矢橋港跡と名木 琵琶湖の津々浦々には古来多数の港が設けられていた。草津には、志那・山田・矢橋の三港が認められるが、八橋港は近江八景「矢橋帰帆」で著名であった。発掘された三本の石積突堤一帯が公園となっており、ほかに石造常夜灯も現存する。 一帯は公園となっているほか港の入り口にイチョウの大木がある。樹高23m、樹齢250年といわれるこの大木は、湖上より矢橋を目指すための目印になったといわれる。 現在では、琵琶湖の湖上に矢橋帰帆等が造成され、かつての景観は創造するしかない。 石津寺 当時に宿陣した足利義詮が霊夢に感じて延文4年(1359)に再建したと伝える。正面5間、側面4間の寄棟本瓦葺の本堂は重要文化財であるが、かつての広大な寺域は現在では見るかげもない。 南田山稲荷神社の古墳 野路町南田山にある神社の境内奥に古墳時代後期の円墳が現存する。横穴式石室を実見することができる市内唯一の古墳で、明治30年(1897)には直刀および須恵器の提瓶が出土したという。 南笠古墳群と治田神社 南笠町の治田神社の西北の水田の中に位置する古墳で、文政年間(1818〜1830)田中貞昭の著した『栗太志』によると、20基を越える古墳が存在していたと伝えられるが、現在は前方後円墳2基と半壊している円墳1基が残るだけである。 前方後円墳はいずれも全長30m近い墳丘を有し、高さ約3m、円墳は直径15m余りの墳丘であったと考えられている。治田神社の境内には「東海道中山道」の道標が移設されている。 仙命庵 安永2年(1773)に寿山仙命尼が開基した当庵の本尊の釈迦如来像とは別に安置する木造大日如来像は、円満な相好、衣襟の流麗な均整のとれた鎌倉時代初期の彫像である。 妙楽寺 妙楽寺の中庭には大きな塔心礎があり、白鳳時代から奈良時代におよぶ古瓦も残されている。幻の白鳳寺院「笠寺」に関すると思われる興味深い資料である。(塔心礎・古瓦はともに通常非公開) 芦浦道道標 芦浦道の南端、矢橋道との交点にある3基の道標である。道標には「山田あしうら道」「あなむら道」と刻字され、矢橋から山田、穴村、芦浦、金ヶ森(現守山市)を経て守山宿に達する古墳の起点である。 ●人物の紹介 芝田 清蔵 江戸時代、東海道と中山道の交わる宿場として草津は交通の要所となり、大津との人や物資の行き来はいっそう盛んになりました。 その頃、矢橋港を支えてきたのが芝田家の人々でした。芝田家は船代官として任ぜられ、矢橋港でのもめ事もうまくまとめていきました。船代官になると『清蔵』という名前を名のり受けついでいきました。芝田家の屋敷は、船着き場の前にあり、参勤交代で船を待つ大名の休憩所にもなり、徳川家康や秀忠、家光も休んだそうです。
大神 正盈 大神家は今から1300年以上も昔、鞭先八幡宮がその名前を付けられる前からこの神社を代々守り、その第39代が正盈です。 正盈は江戸から明治の時代の節目に活躍しました。江戸の終期に、幕府方と朝廷方に別れた戦いが起こりました。国学や漢籍を学んだ正盈は朝廷方に付き、幕府方の膳所藩との間に立ち、いろいろ苦労しました。戦いの結果朝廷方に政権が変わり明治時代になると、功績が認められ、正盈は瀬田にある建部神社(現在の建部大社)の初代宮司にも任命されるなどますます活躍しました。
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