●歴史・史跡・文化財の紹介
蓮海寺
旧志那港に面した湖辺の小堂であるが鎌倉時代の作である重要文化財、木造地蔵菩薩立像を安置する。
境内には当地出身の俳諧の祖山崎宗鑑の句碑や港の賑いを証す常夜灯がある。
志那神社
勧請年代は不明であるが、現存の本殿は1298(応仁6)年に建立された市内最古の木造建築物で重要文化財である。
境内には社殿に向かって左側には鎌倉〜南北朝造の石造宝塔も保存されている
三大神社と名木
志那町吉田に鎮座する古社で、社伝によれば天智天皇4(665)年右大臣中臣金連の勅により風神を祀ったといわれる。
社前にある石灯籠は1291(正応4)年建立の形姿の整ったもので重要文化財である。
神社入り口の鳥居の下にある車止の2石は、昔、力比べに用いられた「力石」といわれる。
境内にある藤の大樹は「砂ずりの藤」と呼ばれ、長い花を咲かせる。開花する5月10日前後には参観者で賑わう。
惣社神社
本社は先の志那神社、三大神社同様に社伝によれば、式内社意布伎神社であったという。境内に存する石造宝塔は志那神社の石造宝塔より古様を示している。
境内には藤の大樹もある。
印岐志呂神社
延喜式神名記載の栗太郡八座の一つである古社で、社伝によれば敏脱天皇13年(6世紀後半)に勧請されたという。
現社殿は1599(慶弔4)年に観音寺の詮舜が建立した優美な建物である。
宝光寺
寺伝および興福寺官務牒疏によれば、白鳳4年(7世紀後半)僧定恵が、天武天皇の助命延命のために創建したという古刹である。境内および周辺地から、白鳳時代に遡る各種の軒瓦が出土している。
本堂に安置されている薬師木造本尊如来立像は、頭体一体の調成で、内刳りを施さず全体的に丸みのある、量感にあふれた9世紀末〜10世紀初頭の平安時代中期に造像された重要文化財である。
橘堂
橘堂は室町時代に兵火により焼かれたといわれ、小堂のみが残る。本尊の木造三面六臂観音立像は平安時代の作で市の指定文化財である。
本面の左右と頭上にあわせて14の面をもち、加えて6本の腕を持つ得意な観音像である。
吉田家住宅(非公開)
吉田家は近江国守護佐々木氏の支流の土豪で、吉田・集・出庭(現栗東市)・川辺(現栗東市)の庄屋役を努め、朽木氏の代官ともなった。主屋は1834(天保5)年頃に建てられた江戸時代の民家としては大規模なものである。
下寺観音堂
天神社に隣接する小堂が観音堂である。かつては、不門山金胎坊と称し、比叡山三千坊の一つであったという。
本尊の重要文化財、木造聖観音立像は頭体を通して一材から掘り出され、内刳りをしない平安時代前期の特徴を残している。天台特有の彩色壇像で、草津市に伝えられた彫像としては白眉といえる。
なお、宝光寺同様、本寺院域も発掘調査の結果、白鳳時代に遡る古代寺院であったと考えられる。
下物観音堂の名木
水生植物公園は琵琶湖博物館のある烏丸半島に近い湖辺にあるクロマツは、樹高15m、推定樹齢200年の巨木で、「烏丸崎の観音さん」として厚く信仰されている観音堂のほとりにある。
花摘寺跡
下物町の天満宮境内には、柱座を有す十数個の礎石、手水鉢に転用された燈心礎、一辺174p四方の石造露盤等の寺院遺品が残されている。
白鳳時代の大寺の跡と考えられている。
安羅神社
産鉄・製陶・医術等に関する神、天日槍が新羅から妻の阿加流比売を追って、日本に渡来し、暫くとどまった吾名邑の一つがこの安羅神社の鎮座する穴村で、本殿には御神体として温石を祀るという。
芦浦観音寺
聖徳太子の開基、秦川勝創建と伝える名刹であり、中興の祖歓雅以降の織豊期の歴代住持が湖上支配に密接に関与していた。
境内には阿弥陀堂や書院など多数の文化財が所在する。(通常非公開)
●人物の紹介
詮舜
織豊の時代、政治の中心は京都に置かれ、草津も重要なところと考えられていました。そして、琵琶湖も人を乗せたり、荷物おうぁ込んだりした船の大通りとしての役割を果たしていました。その数多くの船に積荷や運行の許可を出す責任ある仕事(湖水船奉行という)を、豊臣秀吉から任されていたのが芦浦観音寺の僧詮舜でした。
詮舜は秀吉の信頼を受け、湖水船奉行をしたほか、朝鮮出兵の際に米や武器の準備、また伏見城を作る資材の準備などを任されました。
また詮舜は1571(元亀2)年に織田信長によって焼かれた延暦寺の再興にもつとめました。
【延暦寺再興】
秀吉は比叡山延暦寺の再興について、信長の意向を踏まえ、なかなか首を立てに振りませんでした。
そこで詮舜は秀吉に「あなたは幼名を日吉丸といいました。今は武将として立派になられました。それはあたかも朝日が昇るようです。日吉比叡が再び輝くことは、自然の道理ではないですか。」と進言し、この洒落た言葉に秀吉は再興を認めたといわれています。 |
吉田虎之助
吉田虎之助は1868(明治元)年、現在の志那町に生まれました。旧常盤村の村長や国会議員もつとめた政治家であるとともに、海水ではなく淡水の琵琶湖で真珠を作ることに力を貸した人としても有名です。
三重県で海の真珠養殖に成功した御木本幸吉のもとで技師をしていた藤田昌世という人が、琵琶湖でも大粒の真珠ができないものかと研究を重ねていました。そんな昌世に虎之助は、自分の田畑や家を売ってまでしてお金を用意し、また養殖をする場所を提供しました。
何年のも研究の結果、琵琶湖の内湖である平湖や柳平湖でイケチョウ貝から大粒の淡水真珠がとれるようになりました。
山崎宗鑑
草津三文化人の一人である山崎宗鑑は、室町時代末期の連歌氏で「俳諧の祖」といわれています。
1465(寛正6)年、志那町に生まれたと伝えられています。幼名を弥三郎範重と言い、幼いころから足利義尚に仕えていた武士でしたが、25歳の時、出家しました。その時に宗鑑と名を改め、尼崎(今の兵庫県尼崎市)に3年間すみました。その後、山崎(今の京都府大山崎町)の竹林に「対月庵」と名づけた草葺の小さな家を作り、そこに住んでいました。山崎に住んでいたので「山崎の宗鑑」と呼ばれるようになり、連歌から俳諧を起こしました。
晩年は諸国を旅した後、香川県観音寺市に「一夜庵」と名づけた庵をつくり、1553(天文22)年に89歳で亡くなるまでの20余年間住みました。そのゆかりで、草津市と観音寺市は姉妹都市として子ども会の交流や宿場祭りなどを通じて友好を深めています。
【晩年の句】
洒落を好んだ宗鑑は晩年、次のような句を読みました。
『宗鑑は どちらの人と 問うならば
ちと用ありて あの世へと言へ』
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慈音尼蒹葭
慈音尼は、1716(享保元)年、現在の志那中町の酒屋の娘として生まれました。彼女は8歳で母と死別します。その法要の最中、お坊さんに、お前の母さんがあの世で幸せになるようお経を唱えていると聞かされました。それならば、自分もお坊さんのように修行をして、あの世で母がどのように幸せになっているのか見届けたいと心に決めます。母への思いがますます大きくなり、出家して尼となりました。さまざまな難行苦行を重ねますが、あの世にいる母に会うこともできません。どうも納得がいかなくなりました。
「自分がしていることはどういうことなのだろう。」
「どういう道を歩み、どんな生き方をすれば幸せになるのだろう。」
そうこうするうち、父がなくなり、自分も病気がちをなります。それでも修行を続けていた22歳のとき、その後の人生をかけての師となる石田梅岩に出会いました。梅岩はそのころ人の生き方を説く石門心学の心学者として有名だったのです。